戦績
第5回全世界空手道選手権大会 |
優勝 |
第22回全日本空手道選手権大会 |
準優勝 |
第7回全日本ウェイト制空手道選手権大会 |
軽量級優勝 |
スイス国際大会 |
準優勝 |
第4回全日本ウェイト制空手道選手権大会 |
軽量級優勝 |
第2回全日本ウェイト制空手道選手権大会 |
軽量級優勝 |
選手紹介
1962年、鹿児島県大島郡瀬戸内町(奄美大島)に生まれる。
幼少時に極真カラテ創始者大山倍達総裁をモデルに描かれた梶原一騎が原作の劇画「空手バカ一代」に強く影響を受けた。1978年に高校進学時のため上京し極真会館城南支部(廣重毅支部長)に入門。
選手デビュー後は軽量級選手として活躍。第2回全日本ウエイト制空手道選手権大会(1985年)、第4回全日本ウエイト制空手道選手権大会(1987年)で優勝を果たした。
1985年に開催された第17回全日本空手道選手権大会では5位に入賞し敢闘賞を受賞。無差別級でも実力を示し第4回全世界空手道選手権大会(1987年)の日本代表選手に選出される。ベスト16の成績を残したが、この大会を最後に引退を決意。
1988年、大山倍達総裁からスイス大会出場のオファーがあり現役復帰。本大会の決勝戦では第4回世界大会準優勝のアンディ・フグと戦い準優勝となった。
その後1990年に開催された第7回全日本ウエイト制大会の軽量級優勝。同年の秋に開催された第22回全日本空手道選手権大会では増田章と決勝を争い準優勝に入賞し、第5回全世界空手道選手権大会の日本代表に選抜された。
世界大会前、大山総裁が奄美大島を訪れて緑を激励し「死力達成」の言葉を送った。その言葉を胸に第5回全世界空手道選手権大会(1991年)に挑む。
無差別級のみで争われるこのトーナメントには2メートルを越す大型選手やのちにK-1などで活躍するアンディ・フグやフランシスコ・フィリョも出場した。
海外勢との激闘を経て、当時の極真を代表する強豪、七戸康博、黒澤浩樹って決勝に進出。決勝戦では昨年敗れた増田に勝利し優勝を果たし史上初の軽量級出身の無差別級世界王者となった。
世界大会優勝後に現役を引退。引退後は故郷奄美と福岡の支部で後進の指導をおこなう。
指導者としては多くの強豪選手を育て上げ、緑強志(第2 回KWU世界大会-75kg優勝)、南原朱里(現:緑朱里 第12回世界大会女子の部優勝)、渡邊大士(第13回世界大会男子型の部優勝)といった世界チャンピオンを輩出した。
組織での活動としては2000年からは国際空手道連盟極真会館代表理事に就任。2003年に全世界空手道連盟新極真会に名称を刷新した。
この名称刷新時に音楽家の長渕剛氏が会歌「新極真会の歌」を制作。新極真会として初の大会となった第8回全世界空手道選手権大会では来場者全員にこの会歌のCDがプレゼントされた。
2013年3月には、フルコンタクト空手団体の統一とオリンピック種目化を目指して設立された公益社団法人全日本フルコンタクト空手道連盟の理事長に就任した。
2024年、フルコンタクト空手のワンデートーナメント『空手Champion Of Champions』を企画。空手の大会としては異例の賞金総額3000万円のイベントとして注目を集める。