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大山総裁の教えを墨守したカルマン師範の生涯

2021.08.26
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 長くハンガリーの新極真会を率い、ヨーロッパや世界にも強く影響を与え続けたフルコ・カルマン師範が逝去された。
【訃報】カルマン師範のご逝去

 亡くなる5日前まで普段と変わらない生活を送られていたこともあり、このニュースは多くの人々に驚きを与え、またハンガリー軍において重要な地位に就いていたことからハンガリー国内ではニュースや新聞でも報道された。
 葬儀は26日に国葬並みの軍隊葬が予定されている。 
 カルマン師範を偲び、功績を讃えるためにその空手人生を振り返ると大山総裁への深い尊敬と極真カラテへの愛が見えてくる。
 また、カルマン師範の空手人生はハンガリーの極真カラテの歴史でもあり、同時にハンガリー国内の武道界格闘技界にも多大な影響を与えたことが窺える。

 ハンガリーの極真カラテの歴史は1972年にハンガリー体育大学で始まった。当時のハンガリーは時勢もありオリピック種目以外の武道格闘技は皆無と言っていい状態だったという。
1971年に同大学を卒業したカルマン師範も当時は柔道を修行し、卒業後も軍に所属しながら柔道の研鑽を続けていた。
 転機となったのはスウェーデンのアティラ・メサロス師範がハンガリーに帰郷した際に大学でレスリング柔道部門を対象に開催したセミナーに参加したことだった。上記の通り当時のハンガリーでは空手に対する風当たりが強かったが、部門のトップであるフェレンツ・ガラ博士の計らいによってこのセミナーが実現することとなった。当時のことをメサロス師範は以下のように回想する。
 「ソルノクから軍の兵士が参加すると聞いた。それは楽しみだと思った。その兵士がカルマン師範だった。稽古が始まって数分が経った頃には、彼の独特の情熱と気迫が私にも伝わっていた。そのように地道に稽古を続けた。しかし、しばらくして、私はスウェーデンに戻らなければいけなくなった。100名以上の道場生が私の帰りを待っていたのだ。それでも、その後も関係は続いた。審判のことも指導した。とても熱心に活動するグループが出来て、そのメンバーの多くが今も活躍している。今では誰も空手を厳しい目で見ない、誰も脅威として思わない」
 メサロス師範の指導を受けた後、カルマン師範は極真カラテに専念し、ハンガリー東部の支部長となり、ハンガリー極真の礎を築いた。
 

ガラ博士 メサロス師範 カルマン師範

 1979年には初来日し、大山倍達総裁との邂逅を果たし、念願だった総本部道場での稽古を実現した。
 カルマン師範の名前を日本に残る公式の記録で最初に確認できるのは当時極真会館の機関誌であった「パワー空手」に掲載されたIBUSZ大山カップ’83の記事である。
 この大会は大山総裁にとっても冷戦下の東ヨーロッパやロシアに極真カラテを普及させるための橋頭堡となる重要な大会となった。この大会は15000人の観衆を集め大成功を収めた。カルマン師範もハンガリー東部の支部長として運営に当たり、大会後に開かれた審査会では参段に挑戦。この審査は大山総裁に深く感動を残し、著書「わが空手 武道教育」に詳細を記している。
 この書籍は総裁の内弟子である若獅子の生活をメインに描きつつ、当時の日本の若者を憂い極真カラテで導きたいという強い意志が書かれているが、この書籍の中に海外で心を打たれた姿としてカルマン師範の審査について触れられている。

[感心したのは――ある日、私はハンガリー支部の昇段審査に立ち合った。その日、昇段審査を受けるのは、ハンガリー空軍の空挺部隊長をつとめる37歳の人だった。ハンガリー東半分の責任者、カルマンである。現在二段。三段に挑戦しようというのだ。
 ご承知の方も多いと思うが、極真会館では三段昇段にあたっては30人組手が義務づけられている。といってもこれは一般部の場合であり、壮年部の人たちにはケース・バイ・ケースで免除される。
 その人の37歳という年齢は、日本でいえば壮年部の範疇に入る。だから昇段審査に立ち合った私も、「組手は10人くらいにしておいて、あとは型をやればいいんじゃないですか」と提案した。
 ふつうならホッと安堵の色を浮かべてもおかしくないといえよう。ところが何と、審査を受けるその人本人が、「オスッ、館長、30人組手をやらせて下さい」と頼むのである。私は自らの提案を恥じる思いがした。ただ私がほんとうにお伝えしたいのは、これから先の話である。結局、その男の人は30人組手をやりとげてしまった。2分間ずつ30人、60分。ドンピシャ1時間。これはこれで賞賛に値する。が、これ以上に私の目を見張らせたのは、彼が相手を突き、蹴るたびごとに「キョクシン!」と気合いを入れ、反対に相手の突きや蹴りを受ける時もいちいち「キョクシン!」と叫ぶことであった。このようにして闘う三十七歳の男の姿は鬼気迫るものがあった。私は息を呑んだ。
 しかし私が驚くのは早かった。恐るべきことに、何と彼のあとに出た昇段審査者の全員が全員、彼と同じように「キョクシン!」「キ ョクシン!」を攻防の際に連発するのだ。
 審査の終わったあと、私はアダミ支部長にその意味を聞いてみた。すると、「攻撃の時にキョクシン! という気合いをかけるのは、極真カラテがこんなにも強いということを表すものです。防御の時にキョクシン! と叫ぶのは、極真カラテがこんなにも我慢強いということを示すものです」アダミ支部長の説明を聞いて私は直感的に”これだ!”と思った。これが真実である。これ以上の真実はない。だがあまりにも単純明快であまりにも当たり前の真実なので、ふだんわれわれはこのことを見逃しにしているのではないだろうか。虚をつかれるという表現があるが、私もまさに虚をつかれたような気がした。]

 大山総裁はカルマン師範の姿の中に日本人が忘れつつあった武道精神を見たという。
 パワー空手にはハワード・コリンズ師範に竹刀で気合を入れられながら組手に挑むカルマン師範の写真が収められている。カルマン師範の昇段組手を間近で見守ったコリンズ師範は当時を以下のように振り返る。
「当時から、カルマン師範はハンガリーの極真空手の象徴的な存在で、それは最後のお別れまで変わらなかった。
総裁が特別ゲストとして出席されていたため、昇段審査会を行なうことになっていた。総裁はカルマン師範の技術面に満足されていて、時間も少なかったことから、それで終了になると思われた。しかし、カルマン師範は30人組手を強く希望したため、総裁も了承し、行なうことになった。カルマン師範は何かを諦めるような人間ではなかった。これは、人生の様々な場面でも同じだった。
組手の人数が進むにつれて、カルマン師範にも疲れが見えてきた。私にも何かサポートが出来ればと思って、竹刀を手に持って、大声で応援して気合を入れた。そうすると、また元気を取り戻して、最後までがんばってくれた」

パワー空手から 昇段審査に臨むカルマン師範と気合いをいれるコリンズ師範

 カルマン師範はその後、再び総本部道場で修行するために来日、総裁の間近で極真カラテを学んだ。来日中の姿はパワー空手の他、極真カラテ年鑑の中に確認することができる。


 
 帰国後、彼はソルノクにBanzai Kyokushin Clubを創立し、精力的に極真カラテをハンガリー国内に広め、会員数は増大していった。
 ハンガリー軍においてもその影響力は強く、空挺部隊や特殊部隊の部隊長を務めたが、彼らの訓練法はカルマン師範が制定したものであり、徴兵時代のハンガリー人はみなカルマン師範の教えを受けていたことになる。現在も入隊した軍人はカルマン師範が作った訓練メニューを行っているという。

  先にも記したが、カルマン師範が極真カラテを始めた当時、ハンガリーにはオリンピック種目以外の格闘技が存在しなかったが、師範に軍や道場で教えを受けた生徒たちの中から空手以外の武道格闘技の道に進む者も現れ、様々な種目の道場やジムが設立された。そのためカルマン師範は「ハンガリー格闘技界の父」と言える存在でもあった。
 その一方、カルマン師範は総裁に学んだ空手のカリキュラムを改変したり、独自のアレンジを加えることを嫌った。師範は他の古武道や日本文化なども深く学んだが、その目的は総裁をより深く理解し、その技術の意味を理解するためだった。
 稽古や指導に悩むと常に総裁から学んだ教えに立ち返り、最期まで極真カラテのオリジンに拘っていたという。
 総裁への敬愛の念は2014年に大山総裁没後20年を記念したマス大山・メモリアルカップを2014年に強く顕され、大会に先立って行われた追悼稽古には海外の支部長や選手が多数出席し、厳かな雰囲気の中、世界の新極真会の心をひとつにした。

 総裁の稽古を墨守したハンガリー支部は多くの強豪選手を輩出し、特に2007年の第9回世界大会からスタートた女子の部において、ヴェロニカ・ソゾベトス選手が栄えある最初の無差別級女子チャンピオンに戴冠。第11回世界大会でもチェンゲ・ジェペシ選手が優勝を飾り、ハンガリー支部の実力を世界に知らしめた。

 またハンガリー支部は2001年には海外初の世界大会である第2回カラテワールドカップを主催し、組織を新時代へ推し進める大きな役割を果たした。


 WKOでは最高段位である八段位の高弟として、長年高段者の審査員を務め、総裁の直弟子としてWKO昇段審査会では伝統の継承を見守った。
 突然の訃報により世界の新極真会は深い悲しみに包まれているが、ハンガリー支部は個性あふれるカルマン師範の人柄を反映して、カーローツィ師範を筆頭に多くの優秀な支部長を育成して組織の拡充を図り、世界大会にも特別協賛者として貢献するヤノシュ・ジュガ師範をはじめ多くの企業家など各方面で活躍する優秀な弟子を多く輩出した。
 カルマン師範の意志を継ぐ彼らによって新極真会ハンガリー支部はこれからも強く団結して発展していくことだろう。

    カルマン師範と縁が深い師範からよせられた弔文

ハワード・コリンズ師範
1983年のIBUSZ大山カップはハンガリー支部、特にカルマン師範にとって、重要なイベントだった。当時から、カルマン師範はハンガリーの極真空手の象徴的な存在で、それは最後のお別れまで変わらなかった。

総裁が特別ゲストとして出席されていたため、昇段審査会を行なうことになっていた。総裁はカルマン師範の技術面に満足されていて、時間も少なかったことから、それで終了になると思われた。しかし、カルマン師範は30人組手を強く希望したため、総裁も了承し、行なうことになった。カルマン師範は何かを諦めるような人間ではなかった。これは、人生の様々な場面でも同じだった。

組手の人数が進むにつれて、カルマン師範にも疲れが見えてきた。私にも何かサポートが出来ればと思って、竹刀を手に持って、大声で応援して気合を入れた。そうすると、また元気を取り戻して、最後までがんばってくれた。

カルマン師範との関係は長いが、いつも諦めずに、総裁の教えに忠実だった。
彼にもう会えないのは寂しい。

ブライアン・フィトキン師範
カルマン師範の急逝は私にとって、とてもショッキングな出来事だった。皆さんにとっても、同じだったと思う。この難しい局面において、家族の方々に心からのお悔やみを申し上げたい。

カルマン師範は義理堅く、信義を重んじる人間で、彼の空手に対する愛情と情熱は、とても分かりやすく、誰にも劣らないものだった。極真空手、特に母国ハンガリーでの貢献は計り知れないもので、今後もそのレガシーは語り継がれていくだろう。

幸運なことに、カルマン師範との付き合いはとても長い。80年代の前半、彼と数名の弟子がスウェーデンを訪れた際、ストックホルムにある私の道場で一緒に稽古したのが最初の出会いだった。その後、日本及び欧州などで開催された大会と審査で何度も会った。このようなイベントでは、共に時間を過ごし、お互いをよく知ることができた。彼はよく空手の話をしたがったが、軍隊にいた頃の話、特に空挺部隊での思い出も楽しそうに語ってくれた。いつも優しく、思いやりと敬意をもって接してくれた。私も彼に対して同様に接した。毎年、必ずクリスマスカードを送り合って、会う時は満面の笑みと大きなハグで挨拶を交わした。

私の空手人生において、たくさんの空手家を見てきた。残念ながら、その中には尊敬できない人間もいた。しかし、カルマン師範のことは素晴らしい空手家として、そして、もしサポートが必要になった時は頼れる存在として見ていた。個人的にも、もう彼と今後の国際イベントで会えないのは寂しい。今後、彼のことを考えた時、共に過ごした楽しかった時間、特に日本での思い出が、きっと私を笑顔にしてくれると信じている。どうか安らかに眠ってほしい。

アティラ・メサロス師範
フルコ・カルマン師範、ハンガリーの最初の侍がこの世を去った。空手とその道に人生を捧げた男。その結果は、永遠に我々と共に残る。

まずは彼との出会いを振り返りたい。1972年、私はスウェーデンから、両親に会うためにハンガリーを訪れた。当時、両親はハンガリー体育大学の近くに住んでいた。デンマークから2名、極真空手を稽古しに来たとの噂があった。次の日、指導の招待を受けた。レスリング、柔道の部門で指導をした。新しく、珍しいものだったため、多くの人が参加した。残念ながら、当時は空手に対する目が厳しく、権力者の中には、存在すら脅威として見るものもいた。しかし、幸運なことに、部門のトップであったフェレンツ・ガラ博士が快く受け入れてくれた。次の日は、ソルノクから軍の兵士が参加すると聞いた。それは楽しみだと思った。その兵士がカルマン師範だった。稽古が始まって数分が経った頃には、彼の独特の情熱と気迫が私にも伝わっていた。そのように地道に稽古を続けた。しかし、しばらくして、私はスウェーデンに戻らなければいけなくなった。100名以上の道場生が私の帰りを待っていたのだ。それでも、その後も関係は続いた。審判のことも指導した。とても熱心に活動するグループが出来て、そのメンバーの多くが今も活躍している。今では誰も空手を厳しい目で見ない、誰も脅威として思わない。

カルマン師範にとって大きな一歩となったのが、1979年に東京で大山総裁との稽古が実現し、総裁のお気に入りになったこと。それからカルマン師範とハンガリーは極真空手のステージで躍動した。大会でも好成績を収めた。彼はソルノクにBanzai Kyokushin Clubを創立した。指導者として多くの人間を育成してきた。ヨーロッパを中心に世界中の国を訪問した。WKO審査委員会のメンバーとしても組織に貢献した。始めたことは、必ず鉄の意志で最後までやり遂げた。神の意思により、我々のもとを去ったが、心の中にはまだいる。今でも多くの人の尊敬を集めている。多くの兵士が軍隊での指導に感謝している。彼がいなくなってとても寂しい。これからは永遠に静かな青空、どうか安らかに眠ってほしい。押忍。


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